アメリカ生活と思うこと

生活している中で思うこと in USA

糖質さん(2)

子供達が戻ってくると「ご飯どうする問題」は大きな課題となる。9月5日から学校が始まって「お弁当どうする問題」も加わった。

 

「ごはん」と「おかず」

 

この公式を打ち破るのは子供達がいるとかなり勇気のいることだ。というか、料理好きではない私にはレパートリーも多くない上に、新しい料理に挑戦!という野心もなかなか生まれず、慣れ親しんだ「ご飯に合うおかず」「ご飯に乗っけちゃう丼物」になってしまう。

 

そして朝はトーストだ。

 

炭水化物様様状態

 

新学期が始まって2週間。また、パンを買ったりご飯を炊くようになった。

 

人間が炭水化物をたくさん摂取するようになったのは人類の歴史の中では最近のこととはいえ、私の歴史の中では人生そのもの。でも、糖質はよくないという情報も脳裏から離れない。

 

そんな折、Netflixで竹中直人主演の「野武士のグルメ」を見てしまった。日本にいればごく日常的に食すであろう「ラーメン」「お弁当」「ハヤシライス」「おでん」などが美味しそうに画面に映り、竹中直人さんがこれまた「うまい。うまい〜」と言って食す。

 

アメリカにいる私は、うなりながら生唾をのみこみつつ見ていた。

 

職場のドーナツ食いも容易に再開。

 

私の糖質制限もどきはあっけなく終わった。

 

糖質の中毒性というのは本当に強いんだなとか思いつつ、それがわかった上で美味しくいただく。

 

ありきたりな結論だけれど「バランスだよ!」ということに落ち着いた。

 

糖質から得られる心の栄養だって大事よ、っていう人によれば言い訳っぽく聞こえるかもしれないことも私には大切なのだ。

 

過ぎたるは及ばざるが如し

 

体に不可欠な水でさえ飲み過ぎれば死を招く。

 

ほどほど

 

よい塩梅

 

バランス

 

 

 

また明日から一週間が始まる。

 

難しいけれど、それに向かう努力は続けよう。

 

 

あと見つけたい答えは「料理することが面倒にならない秘訣」だ。

糖質さん (1)

久しぶりに書いたブログを2度掲載していたことに気づいた、たった今。服を中表に着て一日中過ごして、家に帰って気がついて恥ずかしい気持ちになるのと似ている。

 

ところで、

 

私は炭水化物(糖質)が大好きだ。炭水化物のおかげでここまで大きくなったと言っても過言でないほど多くの炭水化物を消費して生きてきた。

 

高校時代のお昼も部活後のおやつも菓子パンのことが多かった。炊きたてごはんの甘みを噛み締めて幸せを感じるのが好きだった。若かりしおデブ時代はご飯2合を一気とか食パン一斤一気とかやっていた。実家がコンビニだったから廃棄になったお弁当に菓子パンおむすびは食べ放題だった。

 

しかしである。

 

近年、糖質はよくない!「糖化」が体によくない。炭水化物の摂取を減らそう!みたいな風潮になっている。

 

なんてこったい!

 

お茶碗をぐいっと突き出して「おかわり!」と叫ぶのが喜ばれた時代は終わってしまったのか。

 

そして調べればでてくるでてくる…

 

「糖質は脳のエネルギーとなるため、脳が喜ぶようにできていて中毒になりやすい」とか「抗酸化分質ができて老化につながる」とか「糖尿病のリスクが増える」とか「疲れやすくなる」とか、キリがないほど糖質のマイナス部分がずらずらずらずらずら。

  

まあ、確かに思い当たることもある。私は結構疲れやすい。家族は私をいつも眠い人だと思っている。

 

なので、やっぱり糖質の取りすぎかなあと思い、夏休み中の3週間、子供達を祖父母宅に預けていた期間、料理をしなくていいことを使ってパンを買うのをやめ、ご飯を炊かないで過ごした。パスタは茹でるのが面倒なので、もちろん食べなかった(笑)

 

結果、体重に変化は全くなかった。残念。

 

ただ、うちの会社は毎週金曜日がドーナツの日でドーナツが出るが葛藤することなくスルーできた。ベーグル、クロワッサンのある水曜日も、常にあるスナック類も欲することが少なくなった。

 

これは結構驚きの変化だった。

 

つづく。

 

 

書くこと

録音された自分の声を聞くのは鳥肌がぞわぞわして気持ち悪く「もうしゃべるまい!」と思う。

 

自分が書いた文章を読むと同じような気持ちになる。

 

アメリカに引っ越してくる前、自分の中学生の頃の日記を見つけた。「これは葬るしかない!」というくらいに小っ恥ずかしい代物だった。

 

うまい文章を書くにはたくさん本を読むといいと聞く。問題はここにあるのかもしれないとも思う。私は読書家ではない。(子供達には、本を読め読め言っているくせに。)海外にいても今の時代、読もうと思えば日本の本はいくらだって読めるし、この国で英語を使って生活せざるを得ない状況だから英語の本ももっと読むべきだとは思っている。

 

でも、やってない。

 

あと、やっぱりたくさん書くことも大切だと聞く。何でも練習しなきゃうまくはならないわけで文を書くことも例外ではない。

 

ブログもたまに書く。そしてそれはたいてい「下書き」のまま残る。文章がまとまらなかったり、途中で面倒になってしまったり、書いてブログとして世の中に出してどうする?という気分になってきてしまったり…の結果だ。

 

今、こうやって書いてることも「こんなひとりぶつぶつをブログにのせる意味あるの?」という気分になってきている。

 

そして気づく。

 

意味ばかり考えてたらつまらいかもしれない。

 

「楽しいから」「やってみたいから」という理由で十分じゃん。と。

 

どうも親になってからというもの「なぜ」ということを考えすぎるようになってきてしまったようだ。

 

「なんでそんなことするの?」

 

でも大抵、子供に理由なんてない。

 

理由があるとしたら

 

「やってみたかったから」

 

 

いいことも、大人にとって好ましくないことも。

 

その上、今の自分は「やってみたいかも!」と思ったことにすぐいろんな理由がくっついてくる。「面倒くさい」とか「時間がない」とか「金がない」とか「恥ずかしい」とか。

 

そして脳みそはそういう風にできているらしい。

 

面倒なことエネルギーをつかうことリスクがあることは極力避けたがる。そしてその思考が脳を支配するスピードはすんごい速いらしい。

 

そしてたぶん歳をとれば取るほど経験が増えるから「やらない方がいい理由」はどんどんと大きくなっていく。「やりたい」が「やらない方向に向ける力」に勝つチャンスはどんどん減ってゆく。

 

作戦が必要かもしれないと思う。というか、必要だ。

 

今、このエントリーも下書きにしまいこんでしまいそうな自分がいる。

 

Thinking about it dosen't mean anything after all.

 

 

書くこと

録音された自分の声を聞くのは鳥肌がぞわぞわして気持ち悪く「もうしゃべるまい!」と思う。

 

自分が書いた文章を読むと同じような気持ちになる。

 

アメリカに引っ越してくる前、自分の中学生の頃の日記を見つけた。「これは葬るしかない!」というくらいに小っ恥ずかしい代物だった。

 

うまい文章を書くにはたくさん本を読むといいと聞く。問題はここにあるのかもしれないとも思う。私は読書家ではない。(子供達には、本を読め読め言っているくせに。)海外にいても今の時代、読もうと思えば日本の本はいくらだって読めるし、この国で英語を使って生活せざるを得ない状況だから英語の本ももっと読むべきだとは思っている。

 

でも、やってない。

 

あと、やっぱりたくさん書くことも大切だと聞く。何でも練習しなきゃうまくはならないわけで文を書くことも例外ではない。

 

ブログもたまに書く。そしてそれはたいてい「下書き」のまま残る。文章がまとまらなかったり、途中で面倒になってしまったり、書いてブログとして世の中に出してどうする?という気分になってきてしまったり…の結果だ。

 

今、こうやって書いてることも「こんなひとりぶつぶつをブログにのせる意味あるの?」という気分になってきている。

 

そして気づく。

 

意味ばかり考えてたらつまらいかもしれない。

 

「楽しいから」「やってみたいから」という理由で十分じゃん。と。

 

どうも親になってからというもの「なぜ」ということを考えすぎるようになってきてしまったようだ。

 

「なんでそんなことするの?」

 

でも大抵、子供に理由なんてない。

 

理由があるとしたら

 

「やってみたかったから」

 

 

いいことも、大人にとって好ましくないことも。

 

その上、今の自分は「やってみたいかも!」と思ったことにすぐいろんな理由がくっついてくる。「面倒くさい」とか「時間がない」とか「金がない」とか「恥ずかしい」とか。

 

そして脳みそはそういう風にできているらしい。

 

面倒なことエネルギーをつかうことリスクがあることは極力避けたがる。そしてその思考が脳を支配するスピードはすんごい速いらしい。

 

そしてたぶん歳をとれば取るほど経験が増えるから「やらない方がいい理由」はどんどんと大きくなっていく。「やりたい」が「やらない方向に向ける力」に勝つチャンスはどんどん減ってゆく。

 

作戦が必要かもしれないと思う。というか、必要だ。

 

今、このエントリーも下書きにしまいこんでしまいそうな自分がいる。

 

Thinking about it dosen't mean anything after all.

 

 

昨晩は中学生の娘が参加した「ライオンキング・ジュニア」のミュージカルを見に行った。小学生から中学生までの若くて元気なパフォーマンスだった。よいものだった。

 

その日は麻央さんのニュースを聞いたこともあって一日中、生きるとか死ぬとかいうことを思っていたということも重なりとても感慨深く鑑賞した。

 

人は長く生きれば生きるほど、訃報を聞くことが増えてゆく。

 

死というのはどうやっても悲しみが伴うようだ。大往生と言っていい95歳になる祖母が亡くなった時もそうだった。どんなに心の準備ができているような最期でさえ、やっぱり悲しい。

 

ミュージカルの後、夏の生ぬるい夕方の空を見ながら娘が出てくるのを待っていた。

 

ステージ1幕のライオネス達が獲物を追って、捕まえ食すシーンを思い出した。自分の命も数え切れないほどの命の犠牲の上にあるんだよなあと思ったりした。

 

娘はなかなか出てこなかったけれど、イライラせずに待っていた。数日前に夏至を迎えたばかりの6月の夜は老けるのが遅い。夜も8時半を過ぎに、夕日に照らされたシュッシュと乾いた筆でいたずら書きしたような雲が空にはりついていた。

 

そんな雲を眺めながら、病気や寿命で徐々に死に近づいていくのと、事故や自殺で突然なのと、選べるとしたらどっちがいいかな、なんて考えても仕方のないことを考えた。

 

おばあちゃんになって「今日もいい1日だった」と床につき、目が覚めたらあちらの世界に行ってしまった懐かしい人たちと再会する。そしてこの世で縁あった人たちにも「いい人生を送ったよね」と納得され、役目を終えた体は地に返ってゆく。そんな風にこの世を去るのがいいかもしれないなんて思った。

 

自分の最期をぼんやり思っていたところで娘が出てきた。顔にはまだハイエナのペイントつけたままだ。ハイエナというよりは間抜けなタヌキか出来損ないのピエロみたいで可笑しかった。そして青春だなと思った。

 

車の中では「どのシーンが一番よかった?」「どの歌が一番好き?」と質問ぜめにあった。興奮冷めやらぬ娘だった。

 

家に着くと蛍があちこちゆらゆら光っていた。この辺りは6月になるとたくさん蛍が飛ぶ。ぬるい風が木々の間を通って夜の空気をゆらしていた。

 

しばらく二人で蛍が光るのを眺めていた。

 

蛍を捕まえた娘が「捕まえたけど、思わずつぶしちゃった。最後まで光っていたけど。」と言った。

夢とホルモン

今朝見た夢は、起きて1時間後には忘れてしまった。

 

昨日見た夢はまだ覚えている。

 

恋をした夢だった(笑)

 

私は高校生だった。でも、(都合よく)見た目は現実より可愛らしく、相手の子は現実には希少価値の高そうな、というかドラマの設定でしか存在しなさそうな、背が高くてすっきりした面持ちの目が優しい心優しい私のことが大好きな青年だった。(さすが夢)

 

青春映画顔負けの清々しい恋の夢だった。

 

そして夢の中で思った。「もしずっとこの人と一緒にいられたら、この人はずっと私のことをこんな風に思い続けてくれるのだろうか。」と。

 

 

目が覚めてからも、しばらく余韻に浸り恋する乙女の破片を楽しんだ。

 

こういう時、幸福ホルモンって分泌されるものなんだろうか。

 

いい夢を見ている時

その余韻に浸っている時

いろいろ妄想している時

 

もし、夢とか想像とかで幸せを感じるホルモンがでるならば、じゃんじゃんしたいと思うのだけど。どんなもんだろう。

 

https://www.instagram.com/p/BVRlFXhFK_B/

夏の匂い

 

女子力の呪縛

日本では今でも「女子力」という言葉がよく使われているのだろうか。

 

私自身はこういうのに苦手感を感じていて「女子力高いよね」とか「女に生まれたからには」「女なんだから」とかいう話題に、ちょっと過敏に反応してしまう。「カワイイ文化」にも抵抗がある。そしてそうじゃないといけないみたいなのはさらに苦手だ。

 

女らしくカワイくもなれなかった中年オババのひがみだが「自分らしい魅力というか人間性とかが素敵なだけじゃいかんのか?!」と思う。

 

が、それも矛盾していることを知っている。

 

見た目に人間の感情は反応することも知っている。

 

近年、アメリカでは肥満正当化が目に付く。「デブだっていい。デブは病気。デブなのは私のせいじゃないの。社会はデブを悪くいうべきではない。」というのをよく目にするようになった。が、元デブとしては引っかかるものを感じる。遺伝的に太りやすいとか、ガッチリムッチリ体型はあっても、太りすぎはやっぱりよろしくはないと思うし、差別もすべきではないが、それを良しとするのはどうかと思うのだ。

 

そして「デブが本当にデブでいいと思えるのか」疑問に思う黒い自分がいる。

 

いつだったか、人間的に大好きな人が「見た目はどうであれ、中身が魅力的ならいいと思うの!」と言った。でも彼女は明らかに肥満体型なのだ。身長は156−7センチと言ったところだろうか。そして体重は100キロくらいだ。(55キロから40キロ太って、最近、体重計を買って測ったらもっと太ってた!と言っていた)

 

昔の写真を見せてもらったらJessica Albaそっくりだった。いわゆるぼんきゅぼん体型で男には不自由しなかったという。でも性的目線で見られることも多く、それが嫌だったからこうやって太って「内面をみてもらえるように感じて嬉しい」と言った。(誤解のないように言っておきたいけれど、彼女は本当にチャーミング。)

 

いやらしいことに私は、彼女がそう言った時に「それは太ってしまった自分を正当化しているんではないの?」と思ってしまい(口には出せなかったけど)「自分らしい魅力というか人間性とかが素敵なだけじゃ、やっぱダメだ」と思っている自分に改めて気づいた。(面倒くさい上にブラックだ。)

 

私は20年以上前、カナダで人生最高に重い時を過ごした。身長170センチを超えるがっちりむっちり女というのはカナダではそこまで目立つことはなく、うじうじすることもなく過ごせたが、やはりいつもどこかではちょっとした引け目を感じていた。だからそんな風にいじわるく思ってしまったのかもしれない。

 

そして、自分もまだ「女らしい、かわいい」に強い憧れを持っていて、そうしない自分を正当化しようとして自分らしい魅力というか人間性とかが素敵ならいいじゃん」と吠えているのだ。

 

今、私にとって、おしゃれも化粧もネイルも「いわゆる女らしいこと」は、もはや照れ臭さと面倒くささとその他もろもろが噛み合って、「特別な時、専用」になっている。

 

職場でもいわゆるガールズトークになると入っていけない。長い爪も色のついた爪も、化粧もハイヒールも普段使いできない。彼女たちは単に好きだからやっているのだろうけれど、私にとってそういうことは「特別」なので落ち着けない。

 

どんな社会・文化にも、見た目含めて「好ましい・好ましくない」があって、それからはみ出してしまうと、どんな場合でさえ居心地の悪さを感じる。少なくとも私は日本ではそう感じることが多かった。逆を言えばそれがその国や地域独特の文化や「らしさ」を生み出しているのなのだけれど。求められているものからはみ出していると感じることはいい気分ではなかった。

 

アメリカでもそう感じている人はたくさんいると思う。もしかしたら誰もが多かれ少なかれ「はみ出している」「足りない」と感じながら生きているのかもしれない。

 

なんて厄介。

 

その居心地の悪さを乗り越える秘訣は「心から」いろいろまとめて自分が自分でよろしい!と思えることなのかなと思う。そしたら、他人が意地悪なことを思ってもへっちゃらな気がするのだ。

 

いつか軽やかに自分を飾れるようになったら「女子力の呪縛」から解き放されたことになるのかもしれない。

 

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Some rainbow