アメリカ生活と思うこと

生活している中で思うこと in USA

昨晩は中学生の娘が参加した「ライオンキング・ジュニア」のミュージカルを見に行った。小学生から中学生までの若くて元気なパフォーマンスだった。よいものだった。

 

その日は麻央さんのニュースを聞いたこともあって一日中、生きるとか死ぬとかいうことを思っていたということも重なりとても感慨深く鑑賞した。

 

人は長く生きれば生きるほど、訃報を聞くことが増えてゆく。

 

死というのはどうやっても悲しみが伴うようだ。大往生と言っていい95歳になる祖母が亡くなった時もそうだった。どんなに心の準備ができているような最期でさえ、やっぱり悲しい。

 

ミュージカルの後、夏の生ぬるい夕方の空を見ながら娘が出てくるのを待っていた。

 

ステージ1幕のライオネス達が獲物を追って、捕まえ食すシーンを思い出した。自分の命も数え切れないほどの命の犠牲の上にあるんだよなあと思ったりした。

 

娘はなかなか出てこなかったけれど、イライラせずに待っていた。数日前に夏至を迎えたばかりの6月の夜は老けるのが遅い。夜も8時半を過ぎに、夕日に照らされたシュッシュと乾いた筆でいたずら書きしたような雲が空にはりついていた。

 

そんな雲を眺めながら、病気や寿命で徐々に死に近づいていくのと、事故や自殺で突然なのと、選べるとしたらどっちがいいかな、なんて考えても仕方のないことを考えた。

 

おばあちゃんになって「今日もいい1日だった」と床につき、目が覚めたらあちらの世界に行ってしまった懐かしい人たちと再会する。そしてこの世で縁あった人たちにも「いい人生を送ったよね」と納得され、役目を終えた体は地に返ってゆく。そんな風にこの世を去るのがいいかもしれないなんて思った。

 

自分の最期をぼんやり思っていたところで娘が出てきた。顔にはまだハイエナのペイントつけたままだ。ハイエナというよりは間抜けなタヌキか出来損ないのピエロみたいで可笑しかった。そして青春だなと思った。

 

車の中では「どのシーンが一番よかった?」「どの歌が一番好き?」と質問ぜめにあった。興奮冷めやらぬ娘だった。

 

家に着くと蛍があちこちゆらゆら光っていた。この辺りは6月になるとたくさん蛍が飛ぶ。ぬるい風が木々の間を通って夜の空気をゆらしていた。

 

しばらく二人で蛍が光るのを眺めていた。

 

蛍を捕まえた娘が「捕まえたけど、思わずつぶしちゃった。最後まで光っていたけど。」と言った。

夢とホルモン

今朝見た夢は、起きて1時間後には忘れてしまった。

 

昨日見た夢はまだ覚えている。

 

恋をした夢だった(笑)

 

私は高校生だった。でも、(都合よく)見た目は現実より可愛らしく、相手の子は現実には希少価値の高そうな、というかドラマの設定でしか存在しなさそうな、背が高くてすっきりした面持ちの目が優しい心優しい私のことが大好きな青年だった。(さすが夢)

 

青春映画顔負けの清々しい恋の夢だった。

 

そして夢の中で思った。「もしずっとこの人と一緒にいられたら、この人はずっと私のことをこんな風に思い続けてくれるのだろうか。」と。

 

 

目が覚めてからも、しばらく余韻に浸り恋する乙女の破片を楽しんだ。

 

こういう時、幸福ホルモンって分泌されるものなんだろうか。

 

いい夢を見ている時

その余韻に浸っている時

いろいろ妄想している時

 

もし、夢とか想像とかで幸せを感じるホルモンがでるならば、じゃんじゃんしたいと思うのだけど。どんなもんだろう。

 

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夏の匂い

 

女子力の呪縛

日本では今でも「女子力」という言葉がよく使われているのだろうか。

 

私自身はこういうのに苦手感を感じていて「女子力高いよね」とか「女に生まれたからには」「女なんだから」とかいう話題に、ちょっと過敏に反応してしまう。「カワイイ文化」にも抵抗がある。そしてそうじゃないといけないみたいなのはさらに苦手だ。

 

女らしくカワイくもなれなかった中年オババのひがみだが「自分らしい魅力というか人間性とかが素敵なだけじゃいかんのか?!」と思う。

 

が、それも矛盾していることを知っている。

 

見た目に人間の感情は反応することも知っている。

 

近年、アメリカでは肥満正当化が目に付く。「デブだっていい。デブは病気。デブなのは私のせいじゃないの。社会はデブを悪くいうべきではない。」というのをよく目にするようになった。が、元デブとしては引っかかるものを感じる。遺伝的に太りやすいとか、ガッチリムッチリ体型はあっても、太りすぎはやっぱりよろしくはないと思うし、差別もすべきではないが、それを良しとするのはどうかと思うのだ。

 

そして「デブが本当にデブでいいと思えるのか」疑問に思う黒い自分がいる。

 

いつだったか、人間的に大好きな人が「見た目はどうであれ、中身が魅力的ならいいと思うの!」と言った。でも彼女は明らかに肥満体型なのだ。身長は156−7センチと言ったところだろうか。そして体重は100キロくらいだ。(55キロから40キロ太って、最近、体重計を買って測ったらもっと太ってた!と言っていた)

 

昔の写真を見せてもらったらJessica Albaそっくりだった。いわゆるぼんきゅぼん体型で男には不自由しなかったという。でも性的目線で見られることも多く、それが嫌だったからこうやって太って「内面をみてもらえるように感じて嬉しい」と言った。(誤解のないように言っておきたいけれど、彼女は本当にチャーミング。)

 

いやらしいことに私は、彼女がそう言った時に「それは太ってしまった自分を正当化しているんではないの?」と思ってしまい(口には出せなかったけど)「自分らしい魅力というか人間性とかが素敵なだけじゃ、やっぱダメだ」と思っている自分に改めて気づいた。(面倒くさい上にブラックだ。)

 

私は20年以上前、カナダで人生最高に重い時を過ごした。身長170センチを超えるがっちりむっちり女というのはカナダではそこまで目立つことはなく、うじうじすることもなく過ごせたが、やはりいつもどこかではちょっとした引け目を感じていた。だからそんな風にいじわるく思ってしまったのかもしれない。

 

そして、自分もまだ「女らしい、かわいい」に強い憧れを持っていて、そうしない自分を正当化しようとして自分らしい魅力というか人間性とかが素敵ならいいじゃん」と吠えているのだ。

 

今、私にとって、おしゃれも化粧もネイルも「いわゆる女らしいこと」は、もはや照れ臭さと面倒くささとその他もろもろが噛み合って、「特別な時、専用」になっている。

 

職場でもいわゆるガールズトークになると入っていけない。長い爪も色のついた爪も、化粧もハイヒールも普段使いできない。彼女たちは単に好きだからやっているのだろうけれど、私にとってそういうことは「特別」なので落ち着けない。

 

どんな社会・文化にも、見た目含めて「好ましい・好ましくない」があって、それからはみ出してしまうと、どんな場合でさえ居心地の悪さを感じる。少なくとも私は日本ではそう感じることが多かった。逆を言えばそれがその国や地域独特の文化や「らしさ」を生み出しているのなのだけれど。求められているものからはみ出していると感じることはいい気分ではなかった。

 

アメリカでもそう感じている人はたくさんいると思う。もしかしたら誰もが多かれ少なかれ「はみ出している」「足りない」と感じながら生きているのかもしれない。

 

なんて厄介。

 

その居心地の悪さを乗り越える秘訣は「心から」いろいろまとめて自分が自分でよろしい!と思えることなのかなと思う。そしたら、他人が意地悪なことを思ってもへっちゃらな気がするのだ。

 

いつか軽やかに自分を飾れるようになったら「女子力の呪縛」から解き放されたことになるのかもしれない。

 

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Some rainbow

 

 

 

 

 

 

 

 

花金

花金

 

渋滞にはまったけれど、金曜の夜というのはなんと開放感に満ち溢れているんだろう。特に今日はお天気もよく、この季節ならではの日の入りが午後8時半過ぎという遅さ。

 

何も予定がない。というのが更に良い。

 

この感覚は専業主婦の頃はもちろんなかった。常になんとなく忙しくなんとなく暇。自由だけど自由ではない。

 

フランス人の同僚(女性)は専業主婦は嫌だったという。休みなんてないのに評価されない上に自分の収入もない。「割に合わないし、私には合わない」と言っていた。(私は結構好きだったけど)

 

 

 

平日時間に追われて過ごした後の金曜の夜。

 

カゴから放たれた鳥はこんな開放感を味わうのかしら。

 

何も予定がない。これはなんでもできそうな期待感を含む。

 

遠足やクリスマスの前のワクワクと似ている。

 

文化祭の前夜祭とか盛り上がっちゃうのも同類だと思う。

 

実際の私の花金は、夕飯は残り物か夫がバーベキューで何かを作る。彼の買ってきたビールを一缶くすね、それを飲み終わった頃にはダラダラすることに集中し、夜の9時過ぎには「明日は目覚ましに起こされないでいい」というこれまた自由な感覚を味わいながら布団に入る。

 

そして土曜日はたぶん朝5時半に目が覚める。自然に。

 

私の文章力ではしょぼい花金のようだけど、とても地味で、とても自由で、とても幸せに満ちている。

 

 

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スカイプ コール

昨日、何年ぶりかに30年来の親友とスカイプで話した。そして「メールでは伝えたくなかった」というニュースを聞いた。

 

中学の同級生が自殺した。

 

彼は私の友人が小学校の頃好きだった人だった。そして私が中学校の頃好きな人でもあった。誰にも言わずただ日記に書いて盛り上がっていたことを覚えている。

 

話を聞いても今の彼がどんな風貌でどんな生活をしているかもわからない私には今いちピンと来ず、自分の痛々しい思春期の思い出が巡る。

 

 

「死」というのは「誕生」と「生きること」の延長にあり、その価値に差はなく、同じくらい普通にあることなのだ。それなのに「死」だけが特別な悲しみを持つ。少なくとも私の周りではそうだ。生命にここまで意味や意義を持たせるのは人間以外にもいるのだろうかと思う。

 

今年17年に一度大発生するセミが予想外に4年早く出てきているようで、道端にはセミの抜け殻とセミの死骸がたくさん落ちている。そんな中、殻から出たばかりの羽が白くてふにゃふにゃのセミを見つけた。

 

よりにもよって歩道のど真ん中にいた。

 

10年以上真っ暗な地面の下で過ごし、がんばって殻から出て、一週間ほど地上で生きて死ぬ。下手すれば小動物の餌となり人間に踏まれ、地上での一週間を謳歌することもない。

 

一生懸命働いて、コツコツ貯金を貯めてやっと休暇が取れて旅行に出たのに不運なことが起こる。人間の人生に例えたらなんともやるせない。こんな風に例えてしまうのもまた人間だけだろうか。

 

何が言いたいのか全然わからなくなってしまったが、人間として誕生し生きて死ぬということは他の生物より厄介だ。何もかもが大げさだ。小さなことにくよくよし、感動し、自分で自分の命を断つこともある。死んだ後のことも想像する。

 

 

うむ。まったくまとまりがなくなってきてしまった。

 

存在する全ての生物はこの瞬間にしか存在しない。過去や未来に思いを馳せることはできても、存在するのはこの瞬間瞬間でしかない。すごい能力がない自分は今しか存在することしかできない。この文章を書いた数秒前にでさえ戻ることができない。

 

そんな瞬間を記憶に止め、過去とか思い出を残す。そして未来を想像する。そしてそれも生きているゆえにできる技で、脳みそが機能しているからできることなのだ。

 

哲学者でもないのに小説家でもないのに難しいようなことを書いてますます、まとまらなくなったところで朝のランニングに行ってくる。

 

どうか彼の死が周りの人たちに力を与えますように。

 

(仕事の同僚の文化では誰かが死ぬと死んだ人のエネルギーが生きている人に与えられるという。さもなければ、例えば子をなくすなんていう悲劇には耐えられないと。)

 

例のセミ。

https://www.instagram.com/p/BUPwz6ylXEp/

Already? もう?

こどもの日

お・ば・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ

 

一週間前、走りに行く際「今日はどこを走ろう?」なんて思いながら携帯の地図を見ていたら木の根っこに押されてボコっとでていた所にコケまづいた。

両膝と両手そして腕を見事にすりむいた。幸い携帯は無事だった。走り携帯は危険だと身を以て体験した。

 

今その傷たちが治ってきてかさぶたがカサカサになって剥がれてくる頃でとてもかゆい。端っこがペロリとなってきているかさぶたをベリッとやりたい衝動との戦いでもある。

 

 

数日前、4年ぶりに息子の鎧兜を出した。

 

4年前の11月。息子の5歳のお祝いがあった。この鎧兜は5歳のお祝いで着れるようにできていて、その時にだしたきりだった。このお祝いにはアメリカから夫の両親と妹も来てくれて、ちょうど私の母の誕生日も重なりサプライズパーティーも行った。両家が最後に集まったのもこれが最後だった。

 

その後この鎧兜は私たちと共に、日本からアメリカへ太平洋を横断し、アメリカ西海岸から東海岸へ大陸を横断し今に至る。

 

鯉のぼりも吹き抜けで天井が高くなっている所にだした。青空を泳げなくてごめん。

 

柏餅もないけれど、今年はもう出しただけで満足だ。

 

9歳になる息子は、とても興味津々で「日本人の気分!」と英語で言っていた。

4年前のぷくぷくのほっぺはなくなり、ずいぶんたくましくなったような息子。端午の節句で子供の健やかな成長を祝うーーーちゃんと狙い通りになっているではないか。ありがたやありがたや。

 

娘が「私のは?」と聞くので「来年、お雛様も出そうね。」と約束した。

 

こちらは40数年ものの七段飾りで、鎧兜よりも面…手間がかかるのだけど(笑)。

 

兜の横顔

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Kabuto

4月はどこへ

今朝、起きてきたら(娘が)セットしてくれていたコーヒーマシーンが詰まって台所中茶色のコーヒーがぶちまけられていて起きがけの動いてない脳と体にはいささか厳しかった。

 

ふと気づけばもう5月。日本ではゴールデンウィークなんて頃。

こちらも外は見渡す限りの若葉色。日の入りも夜の8時を越えて季節はどんどん夏に向かっているのだと感じる。

 

私の4月は引越しの片付けと子供達の送り迎えと夫のマッサージと仕事と通勤に費やされた。誰かのために時間を使う。したいことよりしなければならないことに時間を使う。それは結局は自分のため、自分にかえってくる、動けることに感謝!なんてかっこいいこと思っていた。それは嘘の気持ちではないけれど同時にお腹の底の辺りには濾過しきれなかったなんとなくドロドロしたものが溜まってくのをうすうす感じていた。

 

そして詰まってしまったある夜「今日はもう無理!これ以上できない!寝る!」と全てを放り出して寝た。

 

感謝してたってストレスは溜まる!

 

これはなかなか新しい感覚だった。

 

そして気づけば5月。そろそろ通常営業に戻れるかなあ。

 

ジョギング中にであった亀。この辺りにはよくいるハコガメというらしい。体長は15センチくらい。

https://www.instagram.com/p/BTglacYF21o/

Hi, there!